前のこと

先日、父が所用で下関より東京に来ていたので、その日の夜一緒にご飯を食べた。

その時の父の話で印象に残ったことがあった。父曰く、最近、ある発見をしたらしい。

 

それは、電子レンジを見ていると表示される時間が少なくなっていくことを意識している自分に気がついたのだという。

もちろん、そのレンジは父がそう意識するずっと前から、セットした時間からカウントダウンされ、0秒になったところでチーンと温まったことを知らせてくれていたことだろう。

でも父はふとそんな当たり前なことを意識し、そんな自分を気がついたのだという。

それはおそらく、老いの意識の現れの一つだろうと言いたかったのだとは思う。

 

基本冗談ばかり話す父から、こんなほのかに哲学の匂いのするような話が出てくるとは思わず、少し面白く、記憶に残った。

 

 

 

その数日後の夏至の日、evam eva yamanashiにて行われた白井明大さんのお話会とstrings umの演奏会に伺った。

両者とも知人であり、尊敬すべき表現者である。そんな両者の話であり演奏は、その空間と時間ともあいまって、来てよかったと心の底から感じさせてもらえるものだった。

その中で、白井さんがこんな話をされていた。

 

心というものはずっと自分の中にあるのだと思っていたけれど、あるとき、自分が見ている目の前のそのモノの中にそれがあるんじゃないかと思った、そんなお話だった。

 

これを聴いているとき、何かとても腑に落ちるような想いをした。

そのときは気がついていなかったが、父との会話のことが残っていたからだろうと後に気がつく。

 

 

 

 

 

 

 

これらを書きながら、大学時代に作った自家製の写真集のことを思い出す。

それは詩と写真という形式で作った、稚拙ながらそのときの自分にしては意欲的な作品だったように思う。

その写真集は『ぶるー、らい』という名前で、その冒頭はこんな詩から始まる。

 

 

 

めくるめく前、

 

そう、前

 

それは世界なのではない

 

前なのである

 

 

青い嘘ん中で

 

おどる

 

 

 

これはもはや詩というよりは何か狂った者の宣言のようでもあるが、ずっと前から自分は「前のこと」について、何かを想っていたことがわかる。

自分の目の前に在るモノ。それは風景であり、人であり、単なる物であり、もしかすると何かの現象なのかもしれない。

ただ、それをときに、自分であり、我が心と想いながら、眺めてもいいのだろう。

そして、それが写真になれば、自分にとって、なお良いのかもしれない。

 

そんなことを感じる、前のことたちだった。