妻いわくまだ耐えれそうだからと、一度様子を見ると病院に伝える。
深夜1時ごろ、流石に耐えられないと言う妻を病院へ。
生まれる直前にしか立ち会えないと言うことで、まだ数時間かかるだろうというので一時、一人帰宅。
何をしていいかもわからず、文字通りあたふたとする。
出産後のお母さんにホットミルクを飲ませてあげたらいいと信頼する方から聞いていたことを思い出し、牛乳を火にかけていた。
すると病院から電話。
1時間も経っていなかったので、おどろきつつ、電話に出ると、もう生まれそうだから早く病院へ来てくださいと、言われる。
火にかけていた牛乳を冷静に魔法瓶に移し、病院へ。
着くと「相当痛みに耐えていたみたい」と助産師さん。病院に来たときには子宮口がかなり開いていたということ。
妻らしいというか、痛みには強いとありえないほど穴の空いた虫歯を自慢げに見せてきたことを思い出す。そのまま分娩室へ通される。
何か映画やドラマで見たことあるような風景。ただそこには妻がいた。
痛みで聞いたことのないような声をあげる妻。後日聞くと、赤ちゃんも痛いから、痛いと言いたくなかったので、「あ」ということばに集約してみたということ。
テニスボールを腰に当てたりするのかなとか、色々考えていたが、ただ手を握るだけの僕。時々、ストローで水を飲ませた。
あとは応援と祈り。
ずっと冷静に声をかけてくれる助産師さんが本当に頼もしい。この人にはじめにわが子をとりあげてもらえることはなんだか嬉しかった。
自分では想像することも難しいような痛みを妻と娘は耐えつつ、光のほうへ。光のほうへ。
なぜか母のことをおもい、目の前の妻をおもい、いつかの娘のことをおもう。
なにかとても不思議な時間。おそらく、これが「神秘的」というのだろう。
くしゃくしゃに泣いた赤子が妻に抱かれた。とてもよかった。うれしかった。しあわせだった。
ただありがとうという感謝がずっとあった。
今日はそんな娘が産まれた一年後
ただのくぎりではあるのだろうけれど、こんなにも嬉しい誕生日はあっただろうか
本当におめでとう
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その時、お母さんとあなたは本当に頑張った。
お母さんはみたこともない顔をして、きいたこともない声を出し、あなたを外の世界に出そうとし、
あなたも、その気持ちに応えるように、頑張って、頑張って、外へ外へ出ようとしてくれた。
お母さんの手を握り、頑張れ頑張れというしかできなかった僕は、無力だったけど、ただただ祈っていたよ。
お母さんが頑張るその姿は、いつかの僕のお母さんの姿だったんだろうし、いつかのあなたの姿なのかもしれない。
そうおもえて、とても不思議で、とても神秘的だともおもった。
あなたは生まれた。
その日はとてもとても晴れた日で、雲一つない空の日で、それだけでもあなたは祝福されていたし、
ぼくらの大切な人たちからも、たくさんたくさん祝福された。
だからあなたは大丈夫。何の根拠もないけれど、だからあなたは大丈夫。
二人へ本当にありがとう。
そしてこれからもどうぞ宜しく。
この世界を一緒にじっくり楽しもう。
家族というのは、ただの親子という関係性を超え、共に生きていく仲間なんだなと、このご家族をみると、いつもそう感じてしまう。
自分たちもそうでありたいと思う。
撮影後、そのご家族と一緒に写真美術館で行われている星野道夫さんの写真展を観に行くことになった。
何度か観ている彼の展示。
みるたびに思う、どうしてこんなに彼の写真やことばは沁み入るようにはいってくるのか。
星野さんの写真はことばであり、そして彼のことばは写真だと感じる。もちろんそれらは異なるものであるけれど、それらがとても等価なものとしてみえてくるのだ。
19歳の頃、エスキモーの村の村長へ書いた手紙からこの展示は始まる。
彼の写真の表現はまさにこの手紙のことばから、始まっている。そんなふうに感じた。
ことばが表現を牽引する。ことばがあるから、その表現もまたあるのではないか。
とても見当外れなことなのだけれども、先の考えるきっかけとして、そう感じたことを残しておきたいと思った。
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40年も生きれば、さぞ立派な大人にもなっているのだろうと思ってもいたが、あの頃思い描いた大人からは程遠いところをまだ歩いているようだ。
そんな自分にも、身体の節々から忍び寄る変化は、40年生きた証のようにリアルにそれを伝える。
悲嘆ばかりではもちろんないと、父親譲りのプラス思考ですぐに開き直れる自分がいて、普段なかなか感謝しない父にも感謝する。
10年前、20代最後の日を過ごしていた僕は、妻も、ましてや彼女もいない、ただのスタジオマンだったのだから、
そう考えると、今は、妻もいて、カメラマンをして暮らしている、なかなかな幸せな男だろう。
先週、祖父の一周忌で、久しぶりに下関の実家に帰った。
その時、サッカーを始めた4年生になる甥っ子が、小中高とサッカーをしていた僕に教えて欲しいとボールを持って、実家にやってきた。
翌日には帰ってしまう自分にとって、教えられることといえば、サッカーの基本となるリフティングかと思い、それを伝えた。
まずはももで2回がやっとな感じだったので、すぐに飽きてやめてしまうかと思っていたが、彼は帰る時まで、やっていた。
そして次の日も、祖父の一周忌が終わった後、また実家にやってきて、リフティングを一緒にやった。
僕が見ている中での彼の最高記録は5回だった。サッカーをしている4年生の平均的な回数からいえば、まだまだ下回る数かとは思う。
ただ、何も言わぬとも汗だくになるまでリフティングを純粋に続ける彼をみていて、才能があると思った。
おそらく「才能」というのは、純粋に続けられる力なのだろうと、
そして、純粋に続ける力は、やがて楽しさへと変わっていく。
彼をみていてそう思えた。
30代の最後の日々に、何か、少し忘れかけていたような、あたりまえを、教えられていた。
40代もまた、純粋に続けられることを、ただ楽しもう、と思った。
実家の前にて。
]]>その時、祖父の顔を初めてみた気持ちになった。
穏やかな表情の中にみえる鋭い眼光のようなもの。
子どもの頃から、優しい祖父だったが、どこかいつも近づき難さがあった。
その理由がここにあったのだろうなとなんとなくそう思った。
顔は物語る。そんな当たり前を教えてもらった大切な撮影であり写真。
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誰にとってもそんな音楽との出会いは少なくないだろうし、こうやって過去の音楽も聴きやすい時代であれば、なおさらなのかもしれない。
僕にとってのかれの不在は、どうしようもない後悔のように在った。
かれのライブがもう観られないこと、かれの創り出す音楽がもう聴けないこと、
かれらの音楽を知れば知るほど、その後悔は募った。
そんなとき、かれの死により活動休止された後の復活ライブが北海道のライジングサンで行われることを知った。
自然と行かなくてはと思い、大学生の僕にとって初めての土地、北海道へと一人で向かった。
確かライブはその日のトリで、北海道の大きな空があかく染まりつつある時間だった。
はじめの音が鳴った瞬間、隣にいた、自分より少し上だろう男性二人が、力強く握手をして泣いた。
おそらく彼らは、かれがいたライブを観たことがあるのだろう、なんとなくそう確信した。
そして、僕も何故か分からず、泣いていた。
いや、かれらの音楽が目の前で鳴っているという当たり前過ぎる事実がとても祝福的なことだと感じられたから泣いたのだと思う。
あかから透明なあお、そして深いあおに変わる大きな空があった。その下にかれらがいて、かれらの音楽があった。
あの日から少しづつ、かれの不在の後悔は滲んでいった。
昨日、かれらの映画をみた。僕が知らないかれとかれらがいた。
その映画はかれらの音楽を鳴らし続けようとする人間がつくってくれた映画だった。
だからあることに気づけた。
僕にとってのかれらの音楽は、かれがいないことで出来上がっていると。
だから、かれの不在は、かれが最後にしかけたマジックのようだとも思えた。
少なくとも僕にとっては。
「音楽はマジックを呼ぶ」
佐藤伸治がそう歌ったように、魔法をかけられた僕はいまを生きている。
フィッシュマンズの音楽を鳴らし続ける人たちに心からの感謝をしたい。
かれはいないがかれらの音楽は流れ続ける。
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撮影しつつ、遠く虹が見えた。
空が広く見える場所をどこかに持っておくことは、大切なことのように思った。
思い描いたことを実現していく人はやはり素敵だなと思う。
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最近は早寝早起きを心がけてきたが、少し撮影の仕事が遅くなっただけで、その習慣は一気に崩れる。
まだ習慣とも言えないようなものだからかもしれない。
ゆっくりでも永く大切に、習慣を繰り返そう。
きちんと習慣となった時の、そのできないというズレはまた、とても意味があるように思うので。
おやすむ。
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美しいという気持ちがそうさせたからと。
そうされた花が、人が、そう思えることがまた美しいのだろう。
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1年で太陽が最も空高く昇る日。そんな日、太陽は何を想うのかなど考えてみるが、こちらが周りを廻っているに過ぎないことを思い出し、太陽にしたら、いつもと変わらない一日かと思いつつ、どこか今日はいつも以上に気持ちよさそうに陽を届けてくれているようにも思える。そんな良い天気。
朝走っているとき、ポッドキャストを聴いている。
先日、共感覚の話をしていた「墓場のラジオ」というポッドキャストで、またおもしろい話をしていた。
時間は、過去から現在そして未来へではなく、未来から現在そして過去へと流れているという話。
つまり自分と共に、時間が動いているという認識ではなく、未来という川上から流れている水が時間で、そこの川中に立つのが自分、その水は川下へ、つまり過去へ流れていくという考え方。確かに、昔の人は「時間が動く」とは言わず、「時間が流れる」と表現したのは、そのようなことをなんとなく認識していたのかもしれない。
他にも「未来」という漢字は「未だ来ない」と書き、「過去」は「過ぎ去る」と書く。
次の月を「来月(来る月)」といい、前の月を「先月(先の月)」とも言う。昔の日本の時計は針ではなく文字盤が動いていたらしい。
江戸時代頃まではこのように、未来の方から過去へと時間が流れているという認識が主流だったようだ。
目標や目的を持つことの意味がそこで、ずっと大切に変化するように思う。
その理想を想像し、そこを見据え、その水を掬いとるように動ければ、確実にそれは実現する。
過去は過ぎ去ったものに過ぎず、そこに囚われるのではなく、未だ来ない未来を捉える。
この認識が正しいのかどうかは分からないが、単純にそう考えることの意味は大きいし、大切なように思った。
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なんとなく聴いていたポッドキャストの中で、「共感覚」というものの話をしていた。
たとえば、ある数字に対し色を感じたり、ある音に対し形を感じたりというように、ある刺激に対し、通常の感覚とは別に生じる知覚現象のことをいうらしい。そのような共感覚を持つ人は少なくないということだ。
そして、共感覚をもつ人に大切なことはそれをまずは自認することらしい。
なるほどな〜と、とても興味深く聴いていた。
浪人時代、予備校に通っていた時の国語の先生は、学問の、根源的な「枠組」を教えるような人だったので、
始めに教わったことは、「人間はありのままの外界を認識できないからことばを与え、手に負えるものにした」、そんな話をされていた。それを聞いたとき、ちょっとしたショックと同時に、すとんと腑に落ちるような気持ちがしたのを覚えている。
アリストテレスが提唱した「五感」という感覚によって、僕らはいろんなことを感じられている一方で、それに囚われて見失われてしまった感覚もまた多くあるのかもしれない。
日々感じるこころの機微のような小さな感情や感覚をもっと素直に純粋に受けとり、認められると、少し「世界」は拡がってくれるのかもと思った。
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残念ながら先輩の五寳さんはいなかったが、ずっと勤められている陽子さんがいた。5年ぶりぐらいに会うが、当時と同じように話してくれる感じがなんとなく嬉しかった。勤められてもう10年以上にもなるだろう。昔からそうだが、彼女の接客や靴修理を求めて来られるお客さんも少なくないだろうし、このお店にはなくてはならない存在なのだろうなとつくづく感じつつ、一時間ぐらい、話し込んでしまう。
上京したて(埼玉ではあったが)の頃、五寳さんや陽子さん、そしてお店に集う人たちがいなければ、自分はどうなっていたんだろうなとよく思う。何もわからぬ初めての土地で、この人たちがいなければ、あんな楽しい毎日は確実に送れていない。
陽子さんと話しつつ、そんなことを強く思い出させていただく。
お店は五寳さんの感性を全身で感じられる本当に素敵なお店だった。
靴の修理やオーダーなどの際は是非!と僕なんかが言わなくても自然とお客さんが集まるお店です。
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「愛、あるいは哀、それは相。」という、3.11の東日本大震災を元に描かれる舞台。
人それぞれのあの日があって、そこから始まった先もある。
もちろん、遠くであのことを見ていた人もいれば、あの日以降に生まれた人もいる。
それぞれが、それぞれの形であの日をもち、何かを想う。
知らぬ間に忘れていくこともあるのだろう。
そんなとき、いろんな表現で、あの日に立ち戻らせてくれる人たちがいる。
昨日は、それが舞台の上で、あの日を生き、その先を生きる人たちがきちんといた。
そこで繰り広げられる会話の波。その中でふとできる凪のような沈黙の間があった。
こちらに何かを問いかけるようなその間が、恐ろしくもあったり、穏やかであったりもしていた。
あれから10年。楔のように打ちつけられた日は悲しくも大切な日なのだろう。
まだあの先はきちんと続いている。それを忘れずにいようとおもう。
このコロナの日々もそうなるのかもしれない。
良い舞台。観ることができ、本当に良かった。
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その庭の脇の小道を通り外出したり帰宅したりするので、
小さな塀と植物で多少塞がれているものの、なんとなくその庭を日々の借景のように眺めさせていただいている。
天気の日は縁側の下のところで、野良猫がぼうっと日向ぼっこをしている。
そこに住む方は80歳を過ぎるご老婦で、お一人で住まれている。
庭の様子からも窺い知れたが、お話をすると、やはり、ゆったり落ち着いた印象の素敵な方だった。
妻は実家から送られてくる野菜を時々お裾分けに伺っている。その方とお話することがとても楽しく嬉しそうだ。
昨日の夕方は、そんなお隣さんがわざわざ家まで、息子さんのお土産が多かったからと、お裾分けしにきてくださった。
あまり外に出ないのよと話されていたので、わざわざ家まで来てくれたことがまず嬉しかったし、
そのお土産のかるかん饅頭もまた美味しかった。
いつかお隣さんのお宅の縁側で庭を眺めつつ、ご老婦と一緒にお茶をすること、それはいまの夫婦のもっぱらの密かな夢である。
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日とともに緑から黄色へ色は移り、嗅ぐと、桃のような良い香りを放つ。
生活の中に小さくとも自然があることは嬉しいことだ。
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そんな、幸せな日曜。
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鳥にも休日のようなものがあるのだろうか。人間と同じような日曜日の静かな朝。
最近はモノクロのフィルムを家で現像している。
お金のない大学時代は、切られていない長く巻かれたフィルムから購入し、それを36枚用のパトローネと呼ばれる円筒形の容器に一つ一つ自分で詰め、使っていた。
そして、撮影したあとは写真部の暗室で現像する。もちろん、はじめはよく失敗して、フィルムを駄目にしていた。
そう、初めてフィルムを現像した時のことも、よく覚えている。
というのも、現像のため、リールに撮影済みのフィルムを巻き直すのだが、光を通さない袋の中で見ずに感覚で行うため、現像して取り出してみると、ほとんどうまく巻きつけられておらず、その為にほぼ全ての画像がプリントできるような状態ではなかった。
ただ、なんとか一枚だけ、プリントできそうな写真があったので、それをプリントしてみると、それがとても良い写真だった。
だからか、単純な僕は、その時、写真に対して運がある、なんとなくそう想った。
思い返せば、あの写真が本当に良い写真だったかといえば、そうではなかったのかもしれない。
けれど、あの時の自分はそうおもえた。そして、写真に対して運があるとまでおもえた。
そんなただの思い込みが写真を続ける理由にもなる。
単純な自分でよかった。
最近始めた現像は、大判フィルムと呼ばれる少し大きめのシートフィルムで、初めて行うので、まだ少し試行錯誤。
やはり、失敗もする。でもそこから色々学ぶ。あの頃とはまた異なる面白さがある。
楽しんでいこう。
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当たり前なのだが、病院が変われば、診断の仕方が変わる。というのも先生も変わるし、設備も変わるし、規模も変わる。
どちらかというと、昨年まで通っていた病院は、規模が少し大きめ、設備もある程度整っている、だからか、診断を受けに来ている人も多く、予約がとれるのは一ヶ月後というのが普通だった。実は今回もそちらにまず電話をした。
まだ病院は終わっていない時間だったが、録音された声に「今日の診断の受付は終了しました。またおかけ直し下さい」と言われた。それはそうなのだろうけど、まだ電話の横にいるんでしょと、どうみても自分が悪いことを棚にあげ、なんとなくそう思った。その後、今回行った病院にかけると、ワンコール目に人が出て、少し驚き、明後日には予約取れますと言われ、さらに驚いた。
新しく行った病院は家から徒歩10分ぐらい、年季の入ったコンクリート打ちっぱなしの外観。中はこじんまりとしているが少し暖かな印象。名前が呼ばれ、中に通されると、まずは先生と対面。丁寧に身体のことを訊いてくれる。血圧はシュポシュポとアナログな測定器で先生が測ってくれた。大人になってずっと機械でされていたからか、腕と一緒になんとなく自分もグッときていた。
スタッフの方に身長と体重を測ってもらう。そういえば、服は着替えなくていいのかと聞くと、「大丈夫、大丈夫、1キロ減らしておくから!」と元気に言われ、「なるほど!」と体重計にのった。いつもとなんか違う。あの整った設備と流れるように測定されていく感じはない。ただ妙に暖かさを感じる。物理的に正確なのかわからないが、心地よい正確さを感じる。そして自分はこちらの方が好きな気がした。
診断の帰り道、家の前に咲く紫陽花を摘む老婦が、通りがかった僕に、「お花は好きですか?」と尋ねてきた。
「はい」と答えると、「じゃあ、これ持っていく?」とその紫陽花を僕にくれた。
「あれ、それ何本だったかしら?」と訊かれ、「4本です」と答えると、「それは数がよくないわ」ともう一輪摘み、「わたし、お花畑で生まれたのよ」とその一輪を笑顔で渡してくれた。お礼を言うしかできない僕は、ぶら下げていたフィルムカメラで、なんとなくお花と一緒にその老婦を撮らせてもらった。「こんな格好なのに大丈夫?」と言われたので、「十分素敵です」といい、シャッターを切った。
もう夏のような暑さの中、花を抱えながら帰りつつ、こんな普通な贅沢な時間のために生きているような気がした。
不思議な日だった。
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小さな蕾がいくつかあり、光がよくあたる午後に、起きましたよというように小さな白い花を咲かせている。
今日朝ふとみると、もう起きている蕾があった。
今日は、年に一度の健康診断。
病気はそこまで気にしていない。
といえば嘘になるかもだけれど、なる時にはなるだろうし、日々健康に過ごさせていただいている気がするからだろう。
自分がこの健康診断を受ける理由は、その年その年の身体の変化を記録しておきたいところがある。
健康診断のお知らせの中に、過去3年間の結果が載る受診表が入っている。
それをみると、去年はその前の2年間と比べると、体重や脂質系が落ちていた。これは明らかに、外出自粛で友人や仕事関係でお酒を飲む機会が減り、日々運動もしていたからだろう。変化の中に書かれない情報が残る。
大学時代に教育学部だったため、教職の試験を受けに行ったことがある。
その面接で、面接官からされた質問の一つに「子どもの健康をどのように管理しますか』と訊かれた。
もちろんそんな質問に対する答えは考えていなかったので、頭を真っ白にしつつ、咄嗟に出たことばは、
「子どもの日々の変化を観察します」ということだった。そのあっさりとした当たり前な答えは、面接官をぽか〜んとさせていた。
そして見ての通り、僕は先生にはなれなかった。
今考えると、そこまで間違った答えではなかったと思っている。
日々、変わらぬことを知るからこそわかる小さな異なり。
そこに何かしらの意味を見出すのも、結局変わらないことを知っているから。
だからそれが小さくても大きなサインなのだろう。
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今やっているドラマでは、「大豆田とわ子と三人の元夫」に夫婦共々どっぷりハマっている。
映画もそうだと思うが、脚本、役者、撮影、照明、編集、音楽、スタイリング、などなど、多くの要素がちょうど良い具合にあいまって、素晴らしいドラマや映画は生まれる。そのちょうど良さの妙がこのドラマにはあるように思う。
この作品を観ていて思うのは、「抜け」についてだ。
それを思わせたのはまず、絶妙な配役の役者の中にあえてミュージシャンなど普段演技をされていないだろう人をところどころでキャスティングしていることだ。もちろん、他のドラマでもそんなことはあるのだろうけど、それがとても意図的に感じた。
そしてそれぞれの登場人物が何かしら「抜けて」いる。それは「欠けて」いるというのかもしれないが。
どこか完璧でない人物たちに、どうしても、自分を投影してしまいそうになる。
でもその不完全さ、その「抜け」がとても愛おしくなっている。
おそらく、このドラマのセリフを書き出し、それらをよくよく読むと、名言だらけだと思う。
それを重くもなくスッときかせられるのは、もちろん役者の演技力もあるだろうけれど、この「抜け」のお陰なようにも思う。
その抜けているという不完全さがこのドラマを完璧に近づけている。
人間の抜けていることを笑いや共感で受けとめさせてくれるドラマ。
何にせよ、まず坂元裕二の脚本が素晴らしいし、その世界をつくりあげる役者やスタッフがまた素晴らしいんだろう。
来週で最終回。楽しみで寂しい。
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今日は雲ひとつない真っ白な空の下、そこから赤い太陽が顔を出し、街と空を光で染め出す。
おはようというあいさつも、その音が届くのはいつかになりそうなので、もう少し早く届きそうな方法を考える。
いまのところのそれは、おはようと想ってみる。
想像では、音の波とはことなり、瞬間移動するようにすんっと太陽に届けられる。
昨日は、世田谷文学館で行われている安西水丸さんの展示と、世田谷美術館で行われているアアルト夫妻の展示へ。
水丸さんの展示は、まずその展示構成から、彼へのリスペクトを感じ、とても素敵なものになっていた。
彼のイラストはもちろん、彼のことば、彼の大切な人たち、収集されたモノたち、
水丸さんをやさしく覆うようにある、モノやヒトやコトらが、好きだなと感じた。
会ったこともないが、どんな人柄かが分かるよう。
たぶん、こどもなおとな。ひたすらなにかを楽しもうとしている人だったんだろう。
水丸さんに会ったことのある友人が、彼からカレーに日本酒が合うことを教えていただいたと聞いたことがある。
とても素敵なエピソードだな〜とよく思い出す。
一緒に行った妻が展示を見終わった後、「水丸さんが居て、“なかなか良い展示になりました”と言っているようだね」と話していた。
確かに、水丸さんご本人が自分の作品をいじりながら、ぶらぶらとしていそうな素敵な展示だった。
この後に観たアアルト展もそうだったが、
伝えること、そしてそれをどう届けるか、
その答えのようなヒントが散りばめられているようだった。
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昨日少し早く寝たためか、4時には目を覚ます。
名も知らぬ鳥らももう起きていた。
歳をとれば早起きなんてのは、やりたくなくてもしてしまうことになるのかもしれないが、いまのところ、ちょっとした趣味になりそうなぐらいな気持ちよさがある。
それは暑くも寒くもない、この6月のちょうど良い気候も大いに関係しているのだろう。
そう、最近、菌の世界も趣味になりそうなぐらいに気になっている。
去年、図書館で借りた小倉ヒラクさんの『発酵文化人類学』を読んで以来。。。本当に名著だと思う。
昨日まで読んでいた渡邉格さんの「腐る経済」という本もまた、天然菌からパンをつくるパン屋の視点から、菌の世界を通し経済について考察し、人の営みについてまで考える、とても面白い内容だった。
「菌の世界」は、失いつつある、小さく小さくした自然な「人の世界」なように思う。
だからそこには人の生き方の大切なヒントが溢れている。
普段、目には見えない、きこえていない、でもきちんと在る世界。それを感じ、生きる。
豊かで大切な時間になるように思う。
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そこで、写真について無知な自分は色々なことを教わった。
毎回、参加者が撮影してきた写真を金村さんが講評していくというシンプルなものだが、
その中で挙げる写真家たち、ウジェーヌ・アジェ、ロバート・フランク、ダイアン・アーバス、リー・フリードランダー、ルイス・ボルツ、写真史を語る上で確実に出てくるであろう写真家たちを誰一人知らなかった僕は、いつも知った顔をして、
終わった後、六本木の青山ブックセンターや恵比寿の写真美術館の図書館で、かれらの写真集を貪るようにみていた。
知らぬ世界が開かれていくようで、とても幸せな時間だった。
そのワークショップの中で、金村さんが言われていたことばが、昨日ふと思い出された。
「カメラの重さは写真の重さ」。
当時はそんな単純なことあるかと思っていたが、写真をやっていくと、その真意のようなものはなんとなく感じられるようになっていく。
昨日は4×5(シノゴ)の大判カメラを三脚につけ、外に出て撮影をした。
カメラ自体は3kgほど、三脚を含めると6kgぐらいになるだろうか。
フィルムはシートフィルムで、撮影する度に自分でホルダーに装填する。
言えばそんなめんどくさいカメラは、撮影をとても慎重なものにする。
まずこれは本当に撮るべき被写体かを吟味し、どうアングルにおさめるかを考える。
そこで自ずと、普段の「みる」とは異なる「みる」という行為になっていることに気がつく。
昨日は2時間で結局、撮影したのは2カットのみだった。
まだ現像していないのでわからないが、そこにはきちんとその行為分の重さを含めた写真が現れるように思う。
まずカメラやレンズ、フィルムなどの機能としての重さ、そして撮るまでの行為としての重さ、
それらがきちんと一枚の写真の重さとして、のっかっていく。
「カメラの重さは写真の重さ」、そのシンプルなことばにはそのようなことが多分に含まれているように思う。
もちろん、これは「軽さ」を否定するものではない。「軽さ」に見出される意味もきちんとあるからだ。
そう、写真に興味のない人にはどうでもいい話。
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6時前だが、外はもう明るい。名前の知らない鳥も鳴き始めた。下の階では妻が雨戸を開けている。
昨年からよく坂口恭平のツイッターを見て、彼のことばや動向にいろいろな刺激を受けている。
本来生きていく中で、大切なことを、シンプルに強く、センスの良い形で表現し続けている人だと思う。少なくとも自分にとっては。
それをみて思うことは多々あるが、最近強く感じているのは、習慣をつけたい、ということ。
日々同じことをし続けること。
そこにはとても大切なことが沢山含まれているようだ。
そして、それはいつかとても美しいことになるようにもおもう。
朝早く起きること。
ことばを残すこと。
掃除すること。
走ること。
ストレッチすること。
本を読むこと。
写真を撮ること。
映像を撮ること。
それを形にして、みせること。
昼寝すること。
一つでも、妻のために何かすること。
笑うこと。
何も考えない時間をつくること。
自分がし続けられること、し続けたいこと、それを習慣にしていこう。
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あそこからこの家の様子はどう見えているのかとよくおもう。
工藤祐次郎という人のうたを聴きながら、久しぶりにブログをかく。
音楽も僕の好みを言い当てるかのようにお勧めしてくるので、そのままに聴いてみる。そこまで外れていないので、なんとも言えない気持ちとなる。
ためになる話を毎日のように書く話す人を読み聞いて、すごいなと思いつつ、自分が毎日続けられることを考え、フォロワーを増やすにはとかを考えて、考えない。
どうでもよい気配を感じ、何も考えず、不安になったり、忘れようとしたり。
養老さんも自分の意見を通すために、考えの食い違う妻と衝突することがあったらしい。
ただ自分の意見を押し付けるのではなく、自分を変えた方がいいのではと思ったらしい。
自分を変えれない人が、そうやって自分の意見を押し付け、人を変えようとするのはそもそもおかしいだろうと。
そうだなと、youtubeの中で話す養老さんにうなづく。
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家が変わると、生活が変わる。
そんな当たり前なことを強く思う日々。
新しい家は、少し古い家。木の雨戸があって、ガラガラガラと、朝開けて、夜閉める。
朝開けるとき、太陽と挨拶し、夜閉めるとき、とおく夜がやってくる。
少し、めんどくさくなるような動作が、時間を区切る。
開けにくい古びた木の雨戸が、光を入れ、闇を閉ざす。
当たり前なことを気づく毎日。
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それは、3×3のマス目が9つ集まって出来た9×9のマス目に数字を入れていくというもの。
数字の入れ方のルールは二つ。
?3×3のマス目には1〜9のすべての数を使う。 ?縦9マスにも横9マスにも1〜9のすべての数字を使う。
図もなく、ただ言葉で説明すると、少し分かりづらいかもしれないが、やれば本当に単純なゲーム。
もちろんはじめは簡単なレベルのものもかなりの時間を費やし、数字を埋めていく。
ただ、段々慣れてくると、数字の見つけ方のコツを見つけだす。
数字は一方向から見つめていても出てはこない。関係しないと思っていた離れたマス目から、知りたいマス目との関係性を見出だし、数字を導き出したりする。多視点で一つの数字(答え)を見つけだすことが重要になってくる。あと、仮に推測でも数を入れてみて、間違えることで、答えを導くこともある。
これというのは、おそらく日常の中での答えの導き出し方でも、とても大切だなと思う。
なんとなく思い浮かんだのは「風が吹くと桶屋が儲かる」だ。
一見すると関係性のないことが見方次第、意識次第できちんとつながっていくということ。
それは結局、自分がその答えをどんな熱量で求めているかのような意識の差なのだろう。
どんどん、想像は膨らみ、この世界もナンプレのようなものではと思ったりする。
はじめにきちんと成り立った一つの盤面があったのだろうと。
そこにできた空いた部分を埋めて行っているのが日々わからない何かに向かって生きているようなことで。
でもだから、きちんと答えもあるような気がする。
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見るのは基本的に御飯時。
今日は夕食の浜松餃子を食べながら、まずはセブンルールの藤田ニコルを見た。
スーパーで買ったその餃子は、どの辺が浜松なのかはわからなかったが、美味しく、また買おうと妻と話した。
テレビがないなりに藤田ニコルは知っているし、みちょぱも知っている。
彼女らがすごいことはなんとなく分かる。若くても大切なことを心得ている人はずっと大人だなと思う。
セブンルールの後、情熱大陸を見ると、今回は建築家の藤森照信さんだった。
そう、およそ一年前、岐阜の方へ旅行したおり、岐阜にあるモザイクタイルミュージアムにて、藤森建築を体感した。
いろいろなメディアであの外観は目にしていたこともあり、印象として強く残っているものの、やはり実物を見るまではどこか見た目としての面白さだけではないのかなど、全く藤森建築を分かっていないところがあった。
あの時実際に対面して、得た静かな温かな衝撃は忘れられない。
建築はいうまでもなく、その場所、空間に影響しあいながら、ただ立つ。
メディアの中であのどこか突飛にも見えた建築は、それと矛盾するようにその風景に馴染んでいるように感じた。
もちろんそれは、純粋に深く考えられ、そこに生まれるように、そして在ったように建てられたから、あの形となり、そして風景になっていたのだろう。
もちろん、内部の空間もまた、その精神性に触れられるようなものだった。
それはどこか、コルビュジエのロンシャン教会に入った時の感触にも似ていた。
晩年のコルビュジエが建築を心底楽しんでつくったんだろうなと感じたように、藤森さんもにやけながらこの建築を描いたんだろうと思った。
番組の中で、藤森さんはひたすら楽しそうに笑っていた。
もちろん、大人な若者もいいのだけど、年齢的にこれからは、子どものような大人に憧れるし、そうでありたい。
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意志のあるしごとをしよう。
それは仕事より、為事であり、私事。
しごとで変換したら、「為事」が出てきた。森鴎外は「仕事」を「為事」と書いていたらしい。
初めて知る言葉。ただ、いまの気持ちと重なる。
誰かの為(ため)になる事、何かを為す(なす)事、仕えるのでなく、ただ私が為る(する)事。
その捉え方はそれぞれでいいように思う。
それがただ、私事(わたくしごと)であってよい。
それが心からできれば、自然と仕事にもなるのだろう。
「働く」の語源が「傍(はた)が楽になる」からという説もあるらしい。
ひきこもりだという人のブログにそんなことが書かれていた。
これまたあらたなことばをいただいた気持ち。ありがたい。
為事を、そして私事をして、傍楽。
それがしたいでなく、それをする。
そんなことを思った、何もしなかった夏至の日。
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ここで、静かに生活を、先の明るさを見据え。
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7月は、撮影や旅行で自分にとっては少し移動することが多い月となった。
その中で、初めて訪れる街だった盛岡のことを。
別々の方から盛岡での撮影の依頼を受けるという不思議なご縁があり、それも同じ場所という偶然。その場所は旧石井県令邸という盛岡に残る最も古い洋風建造物とも言われる建物での撮影だった。
そこで行われたヒカリアレト2という展覧会の記録撮影と今年の11月にそこで行われる谷匡子さんの花の展示会の告知用の撮影。
両者ともその場所で行われることにとても意義のある展覧会で、これからの自分にとっても大切な撮影になるというちょっとした確信を抱くものであった。
旧石井県令邸
和田みつひとさんの作品
橋本トモコさんの作品
小野ハナさんの作品
松本秋則さんの作品
谷匡子さん
計六日間の滞在になったのだが、なんとなくこの街が好きだという感触がずっとあった。
街に、歴史や文化が残っている。それが無理やりでなく、自然に。
そして、静かに強くそれを伝えようとする場所であり、人がいること。
良い喫茶店もあるし、美味しい食もあるし、美しい川が街中を流れる。
良い街だと感じる要素が歩ける範囲でいたるところに潜んでいる。
また来よう、と思える街。
南昌荘
いろんな美味しいものをいただいたが、クラムボンのカレーは、本当に美味しかった。
熊ヶ井旅館のゴンタ。
光原社
帰り、駅前でちょうどお祭りが行われていた。ちなみにタイトルの「モーリオ」というのは宮沢賢治が作品の中で盛岡をモデルとした地名らしい。
]]>その時の父の話で印象に残ったことがあった。父曰く、最近、ある発見をしたらしい。
それは、電子レンジを見ていると表示される時間が少なくなっていくことを意識している自分に気がついたのだという。
もちろん、そのレンジは父がそう意識するずっと前から、セットした時間からカウントダウンされ、0秒になったところでチーンと温まったことを知らせてくれていたことだろう。
でも父はふとそんな当たり前なことを意識し、そんな自分を気がついたのだという。
それはおそらく、老いの意識の現れの一つだろうと言いたかったのだとは思う。
基本冗談ばかり話す父から、こんなほのかに哲学の匂いのするような話が出てくるとは思わず、少し面白く、記憶に残った。
その数日後の夏至の日、evam eva yamanashiにて行われた白井明大さんのお話会とstrings umの演奏会に伺った。
両者とも知人であり、尊敬すべき表現者である。そんな両者の話であり演奏は、その空間と時間ともあいまって、来てよかったと心の底から感じさせてもらえるものだった。
その中で、白井さんがこんな話をされていた。
心というものはずっと自分の中にあるのだと思っていたけれど、あるとき、自分が見ている目の前のそのモノの中にそれがあるんじゃないかと思った、そんなお話だった。
これを聴いているとき、何かとても腑に落ちるような想いをした。
そのときは気がついていなかったが、父との会話のことが残っていたからだろうと後に気がつく。
これらを書きながら、大学時代に作った自家製の写真集のことを思い出す。
それは詩と写真という形式で作った、稚拙ながらそのときの自分にしては意欲的な作品だったように思う。
その写真集は『ぶるー、らい』という名前で、その冒頭はこんな詩から始まる。
めくるめく前、
そう、前
それは世界なのではない
前なのである
青い嘘ん中で
おどる
これはもはや詩というよりは何か狂った者の宣言のようでもあるが、ずっと前から自分は「前のこと」について、何かを想っていたことがわかる。
自分の目の前に在るモノ。それは風景であり、人であり、単なる物であり、もしかすると何かの現象なのかもしれない。
ただ、それをときに、自分であり、我が心と想いながら、眺めてもいいのだろう。
そして、それが写真になれば、自分にとって、なお良いのかもしれない。
そんなことを感じる、前のことたちだった。
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多治見ではモザイクタイルミュージアム、美濃ではエムエムブックスで行われているiaiさんの展示会を観に行くことを小さな目的に、ふらっと車で。行きの途中には妻の実家の山梨も寄ったり、そこまで決めないゆったりとした旅となった。
伺った先々はそれぞれ魅力的なものに溢れ、日々の生活を顧みたり、改めて自然や時間について畏れ敬うような時がいくつかあった。
特に旅の最後に訪れた洲原神社ではそんなことを強く想わせる場所だったように思う。
「在る」ことはとても偉大だ。
人を通して、みえない何かをみつめるような時間。ありがたい時間。
]]>ゴールデンウィークも重なり、そのあいだはもっぱら映画を観ていた。
夜、吉祥寺のアップリンクで観た、イ・チャンドン監督の『バーニング』と『オアシス』、ポレポレ東中野で観た加納土監督『沈没家族』、アマゾンプライムで観たアレクサンドル・コット監督『草原の実験』、片渕須直監督『この世界の片隅に』(2回目)など、特に印象に残っているのはそれらだった。
イ・チャンドン監督は恥ずかしながら、知らなかった。でも観始めてすぐに好きだと思った。彼の映画の中に在る光が好きだ。
それは多分、光が闇であることを捉え、それを映し込んでいるからだろう。
『バーニング』ではそれは建物のガラスに反射して部屋に差し込んでくる光であったり、『オアシス』では夜になると部屋に差し込む街灯の影を持つ光だった。
それらはある象徴として日々の中に存在し、そして希望と絶望という相反する意味を併せ持っているように映される。だから、そこにいろんな感情をみることができた。それが美しかった。
加納土監督の『沈没家族』は、おそらく社会的な見地から観ても多くの意味をもつ作品だろうし、実際多くの社会学者などがこの映画をネタにいろいろ説いている。そのような面白さももちろんあったが、単純に、いいドキュメンタリー映画だと思った。
評論家でもない自分がえらそうに語ることではないが、個人的に思う良きドキュメンタリーだと判断する要素として、その映画の中に役者を超えるような個性の人がいること、良き音楽が背景に流れていること。そして、映像の中に無意識的に何かおもしろいものであり、その映画を決定づけるようなものが映り込んでしまっているということなどがある。
好きなドキュメンタリー映画、『エンディングノート』、『夢と狂気の王国』、『ふたりの桃源郷』、『人生フルーツ』にも、それぞれいるし、流れているし、映り込んでいる。だから良いドキュメンタリー映画だというのは当たり前なことなのだろうけれど、『沈没家族』にもそれがきちんとあったように思う。
この映画の中で、多用される 1990年代から2000年代前半の当時のフィルムの映像がまた、映画に良いにおいをつけているように思った。
これから先、現代の写真であり、映像は、より多く残っていくだろうけど、あのフィルムの鮮明過ぎず、どこか曖昧な映像によってできるあのようなにおいをつけることは難しいように思った。この映画の主題歌のMONO NO AWAREの"A・I・A・O・U”という曲もそのPVも良かった。
『草原の実験』と『この世界の片隅に』という二つの映画は、全く異なる映画ではあるが、二つとも強い美しさを持った作品であり、根底に伝えたいメッセージのようなものは同じであるように思った。
映画は自分にとって現実逃避であると同時に、現実をみさせてくれる。だから好きだ。
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タナビケ写真館としては今年で3年目。
毎年来てくださる方のお名前と顔が一致してきて、お子さんの成長も見えてくるようになり、それがなんとも嬉しい。
写真の力というのは大きい。それは一枚だけでも強さをもつものもあるだろうけれど、複数が合わさり、さらに大きな力を持つものもある。
一年前に撮った写真とその一年後に撮った写真、その間に在る時間も、そこに写り込んでくれるようで、そんなとき、写真はまた異なる意味を持ってあらわれる。
時と時の間が見えてくる写真であればいいなと思う。
一年前の写真。
タナビケ写真館の最終日の昨日は、3月11日。
数年前、現像していないフィルムがあったので、現像してみた。
それは、あの震災のあった一年後に、その地に赴いた時の写真だった。現像できずに置いたままだったのだ。
震災から一年経っているというのに、その風景は、あの日に起きたことをそのまま伝えているようだった。
あの時感じたどうしようもないほどの無惨さや恐怖を、その写真を見るまで、阿呆な自分はすっかり忘れていたようで、
その写真は一瞬であの日に引き戻し、その時の記憶を重く蘇らせた。
昨日もその写真を見て、3.11について、自分なりに思い出した。
写真にはいろんな力がある。
それはある光景を思い出させたり、ある日の一瞬を愛おしいものとして残してくれたり。
それに携わる以上、そんな写真の力を信じ、そこから何かを見出し、日々を生きられればと思う。
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一月は時間があれば、家を探していた。住んでいる家の更新を機に引越しを考えているからだ。
家を探していると、今住んでいる家の良さや悪さを改めて発見する。
でもなんだかんだこの家は少し狭いがいい家だなと思う。
たぶんそれは、ほぼ一日中良い光が入っていること。そして窓から大きな木(近所の人はその木をトトロの木と呼んでいる)が見えていること。あと、家の前にちょっとしたスペースがあること。その三つのことが大きい。
家を探していて、自分は何を気にしているのかと思うと、場所や広さなどはもちろんあるが、その他に、入ってくる光と窓からの風景、そして変化する余白についてだった。
変化する余白というのは、そこにはあるけどなくてもよいもの。断定できずに定まらないもの。つまり、遊びのような部分だ。
今の家で言えば、家の前のスペース。そこで向日葵を育てたり、椅子を出し、川を見ながら妻とサンドウィッチを食べたり、そこに積もった雪で雪だるまを作ったり、またそこから向こう側を見ると猫が窓から顔を出していることもあった。
トトロの木も、余白のようなものだろう。そこには春、夏、秋、冬と変化する風景がある。
自分の意識によって色々と感じられるその余白が、日々の生活を柔らかく彩る。
僕らのなかなか厳しい予算で条件に合った物件には、そんな余白をみつけられることは少ない。
出てくるのは同じようなつくりの家ばかり。
僕の優柔不断さも相まって、今もまだ探し中。妻は僕に呆れてもうこの家のままでいいんじゃないかとも言っている。
確かにそうかと思ったりもする。
どうなることやら家探し。
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もうあの2018年が終わろうとしている。
年の始まりに妻と決めた週一回ブログを更新するといった約束も、1、2ヶ月を過ぎると、途切れ出し、最終的には8月以降放棄する有様は、我ながらに恥ずかしく、情けない。
さすがに、今年最後ぐらいはもう一度、ブログを書こう。
さて、何を書こうかと、あれこれ悩み、書いては消してを繰り返してるともう2時間経った。朝4時。
さすがにやめようかとしていたところ、昨日、妻と言い争いになったことを思い出す。
そんな時はいつも、できてもないのに自分の理想を、あたかもできているかのように話す。
昨日も「もっと人生楽しんだ方がいい」という誰もが言える当たり前なこと言ってみたのだが、
今日の朝、「もっと人生を楽しもうと思う」と言われた。
妻曰く人生は堪えるもので、今まで心から楽しもうと思ったことはほとんどないらしい。でも、もっと楽しもうと思うということだった。
「人生は暇つぶし」「生きてるだけで丸儲け」、こんなことを言っているのはやはり男で、それを良い言葉と思うのは自分で、
女性はまた異なる感覚で生きているから、世界は成り立っているのだろうな。
今年ももうすぐ終わる。そして次が始まる。その瞬間をきちんと想おう。
今年もお世話になりました。
どうぞ来年も宜しくお願いします。おやすみなさい。
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自営となり、渋滞や帰省の人で溢れ、交通費も上がる頃にわざわざ帰らなくても良いなと思っていることもあり、
そんな日をずらして帰るというのが常だった。
でもこうやってお盆の時期に帰ると、家の近所にある忌宮神社で行われる数方庭というお祭りをみることができる。
それは男たちが一人で長い竹をバランスを保ちながら持ち、女性は切籠(きりこ)と呼ばれる七夕飾りを持って、鬼石と呼ばれる境内の中心に置かれる石を周る。ことばだけでは一見少し地味にみえるが、そこに流れる緊張感などは、みていて静かに興奮する。
子どもの頃見ていたそれとはまた異なる感じ方や見え方をしていることが少し嬉しかった。
1800年続いているというこんなお祭りが、自分が育った街にあることはとても有り難く誇らしく感じた。
結局、山口に滞在したのは3日間という短い時間だったが、今はずっと一緒にいるのに、この街で過ごした時間を何も知らない妻と一緒にこの街やその周辺を歩くのもまた、とても良き時間だった。
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妻が家の前で育てるひまわりは咲き、コメダのシロノワールとしろくまの棒アイスは溶ける。
夏が来た。7月の記録。
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当時テレビで流れていたのを少しみるぐらいな感じだったので、なんとなくしか知らなかった。
48シリーズもあるのかと思いつつ、少しずつでも全て観ておきたいなと思う。
寅さんの可笑しみは渥美清の深みであり、人間のそれでもあるように思う。
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到底かなわぬ夢にしても、その頃は今思い出すだけでも吐きそうになるような厳しい練習に耐え、それに応じるように、どんどんうまくなっていく感覚があったからだろうとは思う。ただその小さな想いもいつの間にか消え、異なるものへと変わっていった。
W杯で戦う日本代表の選手を見ながら、そんなことをふと思い出した。
たぶん、あのグラウンドに立っていた碧い人たちは、小さな頃の夢はプロサッカー選手ではなく、そんなのを通り越し、日本代表としてW杯で優勝することだったんだろうし、厳しい練習に耐えたのではなく、世界に通用する練習を求め、それをただひたすらにやり続けた人たちなのだろう。
最近、筋トレのアプリを見つけ、やり始めたのだが、僕の限界を超えていることも露知らず、次々と新たな筋トレを指示し、実行させる。こちらも意地になりそれについていこうと頑張ると、おそらく中学や高校のときぶりぐらいの尋常ではない汗をかいていた。それを終えたとき、疲れたというよりも驚きの方が大きかった。
限界というのは自分の意志によって決まるのだろう。だからこそ、一人であれば、その限界に達すれば、普通はやめるのだ。でも僕はこのとき、情けないながらも機械によって、自分でつくる限界を超えさせてもらっているようだった。
そんな汗びっしょりの空っぽの頭の中にふと思ったことが一つあった。それは、プロッフェショナルというのは、自分の限界を知りつつも、それを自分自身で超えていこうとし続けられる人なのだろう。そう、自身の中に監督でありトレーナーのような厳しい視点をも常に持ち続けられる人なのだろう。今回の日本代表は少なくともそんな人たちばかりだったように思う。
今更ながら、 自分もプロフェッショナルになりたい、と思った。
話は変わり、今日は 7月7日。
大切な日。
どうかはやく雨が上がりますように。
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URLも変わりましたので、併せてご確認いただければ幸いです。
www.ozok.jp → www.kozokaneda.com
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庭園は住処と自然をつなぐ空間でありながら、一つの独立した世界のようでもあった。
そこは自然に晒される空間であるゆえ、保存する難しさを併せもつ。変わりゆく中でそれらをどう維持していくか。
そんな意志を継ぐようにそこにいる、つよき人の存在もまた美しいなと思った。
最後に寄れた、無鄰菴。三玲の庭園ではないが、本当にいけてよかった。
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ceroの新譜を買ったり、映画『君の名前で僕を呼んで』を観て思わずサントラを買ったからだろう。
どうして君の名前で僕を呼んで欲しいのか、なんとなく映画を観ながら分かった気がしていたが、その意を訊かれた妻に、うまく説明することはできなかった。
5月の記録。
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妻と二人、それを見つけると、家を出るときの小さな幸せのように感じていた。
いつか、その家から人の気配は消え、猫も顔を出さなくなった。引っ越したようだ。
それからはその窓を見ると、寂しさのようなものを日々小さく感じている。
先月から、閉店を迎えるお店の方を撮らせていただく機会が二度ほどあった。
続いていたものが終わるということはどんなことか、そしてそのつづきを、顔が語っているように思った。
始まると終わり、そして終わると始まる。
大きくても小さくても、日常の流れのなかの機微を大切にしながら心に留めておきたい。
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埼玉の東川口にあるtanabike(タナビケ)というギャラリーにて、年に春と秋の二度、
中判のフィルムカメラで撮影し、フィルムを手焼きプリントし、台紙に貼り、お渡しするという写真館。
当日は、隣にあるsenkiyaの前にある桜が、少し早めに開花する品種のようで、その日ちょうど満開になっていました。
その前でも少し、記念撮影をさせてもらいました。
今回が三回目ということで、撮影した30組ほどのおよそ半分くらいは、以前にもお越しいただいたご家族でした。
それがまた本当に嬉しかった。撮影しつつ、何か親戚のおじさんのような気持ちになり、子どもの成長やその変化を見て、幸せな気分を味わっていました。
写真の残し方というのは、人それぞれでいいのだろうと思います。
今日、一緒に仕事をした方と記念写真の話になり、そのご家族は毎年正月に家の前で、三脚にカメラを据え、セルフタイマーで写真を撮っていて、それをリビングに毎年貼り続けているらしく、もう、13年ぐらいは続けているんじゃないかと話されていました。寒い中、嫌々やっていた子どもも段々と楽しみにやるようになったということ。羨ましく、素敵だなと思いました。
写真の残し方のたくさんの選択肢の一つとして、この写真館もあればいいなと思います。
いつか、今年もあの写真館に行くぞと親に言われ、少しめんどくさかったり、恥ずかしかったりするけど、少し楽しみに来れる場所になればいいなと思ってたりします。
これからもどうぞ宜しくお願いします。
以下は昨年の秋に撮影した写真の数点です。
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まず、何がいいかというと、歯医者なのにBGMがフィッシュマンズやceroやSAKEROCKが静かに流れていること。
今日はBELLE AND SEBASTIANが流れていた。
診察台は二つ。先生は一人、助手も一人。あとはモノトーンな空間で、無駄なものはなく、暖色の光が優しい。
丁寧に、一つ一つの治療に対し、なぜそうするのかという説明と、選択肢、そしておすすめを伝えてくれる。
こちらが話さない限り、無駄なことは話さず、黙々と治療をしてくれる。
そこでは基本的に必要なことしか話さないので、わからなかったが、同じところに通っている妻曰く、話しかけると先生は色々話してくれるらしい。先生の診察服の帽子の下は金髪なのではないかとも話していた。僕の先生への謎は深まる。
ごはん屋だけでなく、住む街にこんな行きつけがあることは嬉しい。
写真は街の写真。
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雪みたいな服をきた人が、家の前で雪遊びをしていた。
雪で作った、白アザラシは、帰ってきたら、豆3粒になっていた。
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結局、大学は落ち、理転浪人生となる。今思えば、おそらくこの浪人時代が一番建築をみていたように思う。
浪人後、建築系のことが学べる大学に受かったものの、同じように興味のあった、美術の勉強ができる大学へと進学する。
それから、建築とは少し距離が開いたが、写真を仕事にするようになって、自然と建築の撮影を頼まれる機会が増えた。
それは、もちろん、今の人の繋がりもあるのだが、たぶん、あの時期があったからだとも思っている。
建築の撮影をするようになって、改めて建築の面白さを感じる。
昔、読んだ本の中で、建築家のフランク・ゲーリーが建築と美術の違いについて訊かれた時の答えがとても印象的だった。
「簡単なことです。建築には窓があり、美術には窓がない」。
正直、この本質的な意味を分かっているわけではない。
ただ、建築をみるとき、感じるとき、記録するときに、いつもこの言葉を意識していたいなと思う。
これは写真ではないが、初めて撮影・編集した建築ムービー。
Project : Ezura House
Architect : co-design studio(www.co-designstudio.jp)
Location : Ezura, Saitama, Japan
Filmed & Edited by : Kozo Kaneda(www.ozok.jp)
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普段とは異なる空間というのは落ち着かないということもあるが、
その必要最低限度な空間や、これは必要なのかと思う装飾、またそれらの配置など、
それぞれをまじまじと見つめると、不思議とおもしろかったりする。
いつもとは異なる光を感じたり、窓から見える見慣れない景色は、異なる土地にきていることを改めて身体に知らせる。
少しづつ記録していこうと思う。
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作りながら、自分の写真を改めて振り返りました。大切な時間でした。
自分がこれからも撮っていきたいものやそれに通じる写真をできる限り並べています。
お時間あるときに、少しでも見ていただければ嬉しいです。
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お店は鳥貴族。自営の集まりのような会なので、安くて酔えてまずくないお店というのは、いつまでも僕らの味方だろうなと思う。
会では、その方面の集まりなので、なんとなしの話から自然と写真の話になるか、それを嫌う人で分かれる。
自分はどちらかといえば写真の話をしたい派である。だから現役の頃からそういう先輩や後輩とつるむ方が多かったように思う。
どの分野でもそうなのだろうけれど、そんな話にははっきりとした答えはそれぞれにあるかそれ自体ないわけで、「そろそろ‥」と店員に帰りを催促される頃には、結局すっきりすることもなく、問題、または課題として、自分の中に澱のようにたまっていく。それを帰り道、酔った頭で考えると意外と良い答えを出したと思うが、起きると忘れているか、ただの自己満になっていたりする。その繰り返し。
ただ、最近それ自体ができていなかったので、楽しく、充実した時間だった。ありがたい。
いま撮っている写真を、いまでも、いつかでもきちんとみてもらえるようにしていこうと改めて思った。
結局出さないかぎり、何を言ってももらえない。とか、学生時代にも言ってたな。答えは繰り返す...
写真はスタジオ時代の飲み会写真。もう5年以上前。はやいな〜。日またいでるな〜。
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煮込みハンバーグ。
正直ハンバーグなんて作ったのは小学校の家庭科の授業以来じゃないかと思う。
そんな自分はなぜか煮込みハンバーグという、ハンバーグにさらに「煮込み」というアレンジを加えたものを作った。
それは普通の人からしたら「アレンジ」ではないのかもしれない。それもよく分からない。
僕は期待に反することもなく、水の量を必要な5倍いれたことに気づき、焼いていた肉が出してくれた旨汁たちを洗い流すように、フライパンからその煮汁を取り出すことになる。このどうしようもない失敗からもなんとか持ち直し、食べられるものとして妻にハンバーグを出すことができた。
一応、喜んでもらえたのでよかった。
話は変わるが、先日、新年に入り、夫婦二人でSLOPEというカフェで、カフェラテを飲みながら今年の家族計画を練った。
その中で、「新しいことをしよう。二人で。」ということになり、悩んだ挙句、僕は写真と文、妻は絵と文で、週1回ブログを更新するということになった。
過去の記事を見てもらえればわかってもらえるように、僕が週一でブログを更新することはなかなか難しいことだろう。
でも、ちょっと頑張ってみようかと思う。
慣れていないこともやってみれば失敗はするだろうけど、いろいろと得られるだろう。もう旨汁は洗い流さないようにしたい。
期間は一年。
1が三つ並ぶ、1月11日の今日から、始めます。
今年も夫婦共々、どうかどうぞ宜しくお願い致します。
妻のブログ http://yyrayy.jugem.jp/
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足を運んでいただいた方々、本当にありがとうございました。
出産予定日が明日だというのに来ていただいたご夫婦、七五三のおめかしして来ていただいたご家族、当日に写真館のことに気づきすぐに予約し来て頂いた行動力抜群なちょうど結婚一周年を迎えたご夫婦、まだまだあげればキリがないような、それぞれに物語がある方々ばかりで、本当に楽しく、撮影をさせていただき、嬉しい時間だった。
でも何より嬉しかったのは、半年前の春、第一回目のtanabike写真館に来て頂いたお客さんがまた来てくれたことだった。
1年後にまた来てくださる方は少しはいるかと思っていたが、まだ半年だというのに、来てくれた。それがとても嬉しかった。
昨日の帰り、tanabikeのオーナーであり、この写真館を企画してくれた拓ちゃんと二人、回転寿司屋で反省会をした。
その時、なんとなくふと出た言葉、「ときをうつしている」というもの。
そのことはこの写真館をやっている中ではとても大きなことのように思った。
記念日とかでなくてもいい、そのときの自分や自分たちはどんな風だったかをただ写しに来るだけでもとても意味があるのだろう。
だから、子供が泣いてても撮りたいなと思う。きちんとそこに泣く理由があり、それがその「とき」を物語るだろうから。
来年の春も秋も、その次の年も、ずっと、やっていきたい、というかやっていこう。
そして、来てくれた人がまた来てくれるといいな。もっと気楽に、でもちょっと気合い入れて。
春に撮影したものを数点。
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だから妻に何か注意されると、よく言い返し、ケンカになる。
いつか、読むかもしれないので、言っておこう。
どうもいつもすいません。
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素直にやり続ける、自分の場合はそれでしかなく、その正解はずっと先でいいと思えた。ありがたい。
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