最近観た映画

先日、妻が自動車の免許合宿に行っていたこともあり、少しだけ、一人暮らしをしていた。

ゴールデンウィークも重なり、そのあいだはもっぱら映画を観ていた。

夜、吉祥寺のアップリンクで観た、イ・チャンドン監督の『バーニング』と『オアシス』、ポレポレ東中野で観た加納土監督『沈没家族』、アマゾンプライムで観たアレクサンドル・コット監督『草原の実験』、片渕須直監督『この世界の片隅に』(2回目)など、特に印象に残っているのはそれらだった。

 

イ・チャンドン監督は恥ずかしながら、知らなかった。でも観始めてすぐに好きだと思った。彼の映画の中に在る光が好きだ。

それは多分、光が闇であることを捉え、それを映し込んでいるからだろう。

『バーニング』ではそれは建物のガラスに反射して部屋に差し込んでくる光であったり、『オアシス』では夜になると部屋に差し込む街灯の影を持つ光だった。

それらはある象徴として日々の中に存在し、そして希望と絶望という相反する意味を併せ持っているように映される。だから、そこにいろんな感情をみることができた。それが美しかった。

 

加納土監督の『沈没家族』は、おそらく社会的な見地から観ても多くの意味をもつ作品だろうし、実際多くの社会学者などがこの映画をネタにいろいろ説いている。そのような面白さももちろんあったが、単純に、いいドキュメンタリー映画だと思った。

評論家でもない自分がえらそうに語ることではないが、個人的に思う良きドキュメンタリーだと判断する要素として、その映画の中に役者を超えるような個性の人がいること、良き音楽が背景に流れていること。そして、映像の中に無意識的に何かおもしろいものであり、その映画を決定づけるようなものが映り込んでしまっているということなどがある。

好きなドキュメンタリー映画、『エンディングノート』、『夢と狂気の王国』、『ふたりの桃源郷』、『人生フルーツ』にも、それぞれいるし、流れているし、映り込んでいる。だから良いドキュメンタリー映画だというのは当たり前なことなのだろうけれど、『沈没家族』にもそれがきちんとあったように思う。

この映画の中で、多用される 1990年代から2000年代前半の当時のフィルムの映像がまた、映画に良いにおいをつけているように思った。

これから先、現代の写真であり、映像は、より多く残っていくだろうけど、あのフィルムの鮮明過ぎず、どこか曖昧な映像によってできるあのようなにおいをつけることは難しいように思った。この映画の主題歌のMONO NO AWAREの"A・I・A・O・U”という曲もそのPVも良かった。

 

『草原の実験』と『この世界の片隅に』という二つの映画は、全く異なる映画ではあるが、二つとも強い美しさを持った作品であり、根底に伝えたいメッセージのようなものは同じであるように思った。語らずとも、それは観てもらえれば分かってもらえるように思う。

 

映画は自分にとって現実逃避であると当時に、現実をみさせてくれる。だから好きだ。

 

良き時代となりますように。

 

時間

2019年春のタナビケ写真館、無事終了しました。おいでいただいた皆さま、本当にありがとうございました。

 

タナビケ写真館としては今年で3年目。

毎年来てくださる方のお名前と顔が一致してきて、お子さんの成長も見えてくるようになり、それがなんとも嬉しい。

 

写真の力というのは大きい。それは一枚だけでも強さをもつものもあるだろうけれど、複数が合わさり、さらに大きな力を持つものもある。

一年前に撮った写真とその一年後に撮った写真、その間に在る時間も、そこに写り込んでくれるようで、そんなとき、写真はまた異なる意味を持ってあらわれる。

時と時の間が見えてくる写真であればいいなと思う。

 

一年前の写真。

 

 

 

 

 

 

タナビケ写真館の最終日の昨日は、3月11日。

 

数年前、現像していないフィルムがあったので、現像してみた。

それは、あの震災のあった一年後に、その地に赴いた時の写真だった。現像できずに置いたままだったのだ。

震災から一年経っているというのに、その風景は、あの日に起きたことをそのまま伝えているようだった。

あの時感じたどうしようもないほどの無惨さや恐怖を、その写真を見るまで、阿呆な自分はすっかり忘れていたようで、

その写真は一瞬であの日に引き戻し、その時の記憶を重く蘇らせた。

 

昨日もその写真を見て、3.11について、自分なりに思い出した。

 

 

 

 

写真にはいろんな力がある。

それはある光景を思い出させたり、ある日の一瞬を愛おしいものとして残してくれたり。

それに携わる以上、そんな写真の力を信じ、そこから何かを見出し、日々を生きられればと思う。

 

家探し

年が明けて、ひと月が経った。

一月は時間があれば、家を探していた。住んでいる家の更新を機に引越しを考えているからだ。

家を探していると、今住んでいる家の良さや悪さを改めて発見する。

でもなんだかんだこの家は少し狭いがいい家だなと思う。

たぶんそれは、ほぼ一日中良い光が入っていること。そして窓から大きな木(近所の人はその木をトトロの木と呼んでいる)が見えていること。あと、家の前にちょっとしたスペースがあること。その三つのことが大きい。

 

家を探していて、自分は何を気にしているのかと思うと、場所や広さなどはもちろんあるが、その他に、入ってくる光と窓からの風景、そして変化する余白についてだった。

変化する余白というのは、そこにはあるけどなくてもよいもの。断定できずに定まらないもの。つまり、遊びのような部分だ。

今の家で言えば、家の前のスペース。そこで向日葵を育てたり、椅子を出し、川を見ながら妻とサンドウィッチを食べたり、そこに積もった雪で雪だるまを作ったり、またそこから向こう側を見ると猫が窓から顔を出していることもあった。

トトロの木も、余白のようなものだろう。そこには春、夏、秋、冬と変化する風景がある。

自分の意識によって色々と感じられるその余白が、日々の生活を柔らかく彩る。

 

僕らのなかなか厳しい予算で条件に合った物件には、そんな余白をみつけられることは少ない。

出てくるのは同じようなつくりの家ばかり。

僕の優柔不断さも相まって、今もまだ探し中。妻は僕に呆れてもうこの家のままでいいんじゃないかとも言っている。

確かにそうかと思ったりもする。

 

どうなることやら家探し。

 

 

 

 

 

 

さっき友人に送ったメールの終わりに今の時間と日付がのっており、12月31日となっていて驚いた。

もうあの2018年が終わろうとしている。

年の始まりに妻と決めた週一回ブログを更新するといった約束も、1、2ヶ月を過ぎると、途切れ出し、最終的には8月以降放棄する有様は、我ながらに恥ずかしく、情けない。

さすがに、今年最後ぐらいはもう一度、ブログを書こう。

 

さて、何を書こうかと、あれこれ悩み、書いては消してを繰り返してるともう2時間経った。朝4時。

さすがにやめようかとしていたところ、昨日、妻と言い争いになったことを思い出す。

そんな時はいつも、できてもないのに自分の理想を、あたかもできているかのように話す。

昨日も「もっと人生楽しんだ方がいい」という誰もが言える当たり前なこと言ってみたのだが、

今日の朝、「もっと人生を楽しもうと思う」と言われた。

妻曰く人生は堪えるもので、今まで心から楽しもうと思ったことはほとんどないらしい。でも、もっと楽しもうと思うということだった。

 

「人生は暇つぶし」「生きてるだけで丸儲け」、こんなことを言っているのはやはり男で、それを良い言葉と思うのは自分で、

女性はまた異なる感覚で生きているから、世界は成り立っているのだろうな。

 

今年ももうすぐ終わる。そして次が始まる。その瞬間をきちんと想おう。

 

今年もお世話になりました。

どうぞ来年も宜しくお願いします。おやすみなさい。

 

 

 

帰省

この夏は実家のある山口に帰った。お盆の時期に帰るのは何年ぶりだろうか。

自営となり、渋滞や帰省の人で溢れ、交通費も上がる頃にわざわざ帰らなくても良いなと思っていることもあり、

そんな日をずらして帰るというのが常だった。

でもこうやってお盆の時期に帰ると、家の近所にある忌宮神社で行われる数方庭というお祭りをみることができる。

それは男たちが一人で長い竹をバランスを保ちながら持ち、女性は切籠(きりこ)と呼ばれる七夕飾りを持って、鬼石と呼ばれる境内の中心に置かれる石を周る。ことばだけでは一見少し地味にみえるが、そこに流れる緊張感などは、みていて静かに興奮する。

子どもの頃見ていたそれとはまた異なる感じ方や見え方をしていることが少し嬉しかった。

1800年続いているというこんなお祭りが、自分が育った街にあることはとても有り難く誇らしく感じた。

 

結局、山口に滞在したのは3日間という短い時間だったが、今はずっと一緒にいるのに、この街で過ごした時間を何も知らない妻と一緒にこの街やその周辺を歩くのもまた、とても良き時間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

7月

暑い日が続いているが、良き光に満ちている。

妻が家の前で育てるひまわりは咲き、コメダのシロノワールとしろくまの棒アイスは溶ける。

夏が来た。7月の記録。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

寅さん

最近、映画「男はつらいよ」シリーズを時間があると観ている。

当時テレビで流れていたのを少しみるぐらいな感じだったので、なんとなくしか知らなかった。

48シリーズもあるのかと思いつつ、少しずつでも全て観ておきたいなと思う。

寅さんの可笑しみは渥美清の深みであり、人間のそれでもあるように思う。

 

 

 

 

 

思ったこと

中学生の頃、ギリギリ、人には言わないにしても心のどこかでまだプロサッカー選手になりたいなどと思っていた。

到底かなわぬ夢にしても、その頃は今思い出すだけでも吐きそうになるような厳しい練習に耐え、それに応じるように、どんどんうまくなっていく感覚があったからだろうとは思う。ただその小さな想いもいつの間にか消え、異なるものへと変わっていった。

 

W杯で戦う日本代表の選手を見ながら、そんなことをふと思い出した。

 

たぶん、あのグラウンドに立っていた碧い人たちは、小さな頃の夢はプロサッカー選手ではなく、そんなのを通り越し、日本代表としてW杯で優勝することだったんだろうし、厳しい練習に耐えたのではなく、世界に通用する練習を求め、それをただひたすらにやり続けた人たちなのだろう。

 

最近、筋トレのアプリを見つけ、やり始めたのだが、僕の限界を超えていることも露知らず、次々と新たな筋トレを指示し、実行させる。こちらも意地になりそれについていこうと頑張ると、おそらく中学や高校のときぶりぐらいの尋常ではない汗をかいていた。それを終えたとき、疲れたというよりも驚きの方が大きかった。

限界というのは自分の意志によって決まるのだろう。だからこそ、一人であれば、その限界に達すれば、普通はやめるのだ。でも僕はこのとき、情けないながらも機械によって、自分でつくる限界を超えさせてもらっているようだった。

 

そんな汗びっしょりの空っぽの頭の中にふと思ったことが一つあった。それは、プロッフェショナルというのは、自分の限界を知りつつも、それを自分自身で超えていこうとし続けられる人なのだろう。そう、自身の中に監督でありトレーナーのような厳しい視点をも常に持ち続けられる人なのだろう。今回の日本代表は少なくともそんな人たちばかりだったように思う。

 

今更ながら、 自分もプロフェッショナルになりたい、と思った。 

 

 

話は変わり、今日は 7月7日。

大切な日。

どうかはやく雨が上がりますように。

 

 

 

サイトリニューアル

サイトをリニューアルしました。

URLも変わりましたので、併せてご確認いただければ幸いです。

 

www.ozok.jp → www.kozokaneda.com