モーリオ

少し振り返って、7月のことを。

7月は、撮影や旅行で自分にとっては少し移動することが多い月となった。

その中で、初めて訪れる街だった盛岡のことを。

 

別々の方から盛岡での撮影の依頼を受けるという不思議なご縁があり、それも同じ場所という偶然。その場所は旧石井県令邸という盛岡に残る最も古い洋風建造物とも言われる建物での撮影だった。

 

そこで行われたヒカリアレト2という展覧会の記録撮影と今年の11月にそこで行われる谷匡子さんの花の展示会の告知用の撮影。

両者ともその場所で行われることにとても意義のある展覧会で、これからの自分にとっても大切な撮影になるというちょっとした確信を抱くものであった。

 

旧石井県令邸

 

和田みつひとさんの作品

 

橋本トモコさんの作品

 

小野ハナさんの作品

 

松本秋則さんの作品

 

 

谷匡子さん

 

 

計六日間の滞在になったのだが、なんとなくこの街が好きだという感触がずっとあった。

街に、歴史や文化が残っている。それが無理やりでなく、自然に。

そして、静かに強くそれを伝えようとする場所であり、人がいること。

良い喫茶店もあるし、美味しい食もあるし、美しい川が街中を流れる。

良い街だと感じる要素が歩ける範囲でいたるところに潜んでいる。

 

また来よう、と思える街。

 

南昌荘

 

 

いろんな美味しいものをいただいたが、クラムボンのカレーは、本当に美味しかった。

 

 

熊ヶ井旅館のゴンタ。

 

光原社

 

帰り、駅前でちょうどお祭りが行われていた。ちなみにタイトルの「モーリオ」というのは宮沢賢治が作品の中で盛岡をモデルとした地名らしい。

前のこと

先日、父が所用で下関より東京に来ていたので、その日の夜一緒にご飯を食べた。

その時の父の話で印象に残ったことがあった。父曰く、最近、ある発見をしたらしい。

 

それは、電子レンジを見ていると表示される時間が少なくなっていくことを意識している自分に気がついたのだという。

もちろん、そのレンジは父がそう意識するずっと前から、セットした時間からカウントダウンされ、0秒になったところでチーンと温まったことを知らせてくれていたことだろう。

でも父はふとそんな当たり前なことを意識し、そんな自分を気がついたのだという。

それはおそらく、老いの意識の現れの一つだろうと言いたかったのだとは思う。

 

基本冗談ばかり話す父から、こんなほのかに哲学の匂いのするような話が出てくるとは思わず、少し面白く、記憶に残った。

 

 

 

その数日後の夏至の日、evam eva yamanashiにて行われた白井明大さんのお話会とstrings umの演奏会に伺った。

両者とも知人であり、尊敬すべき表現者である。そんな両者の話であり演奏は、その空間と時間ともあいまって、来てよかったと心の底から感じさせてもらえるものだった。

その中で、白井さんがこんな話をされていた。

 

心というものはずっと自分の中にあるのだと思っていたけれど、あるとき、自分が見ている目の前のそのモノの中にそれがあるんじゃないかと思った、そんなお話だった。

 

これを聴いているとき、何かとても腑に落ちるような想いをした。

そのときは気がついていなかったが、父との会話のことが残っていたからだろうと後に気がつく。

 

 

 

 

 

 

 

これらを書きながら、大学時代に作った自家製の写真集のことを思い出す。

それは詩と写真という形式で作った、稚拙ながらそのときの自分にしては意欲的な作品だったように思う。

その写真集は『ぶるー、らい』という名前で、その冒頭はこんな詩から始まる。

 

 

 

めくるめく前、

 

そう、前

 

それは世界なのではない

 

前なのである

 

 

青い嘘ん中で

 

おどる

 

 

 

これはもはや詩というよりは何か狂った者の宣言のようでもあるが、ずっと前から自分は「前のこと」について、何かを想っていたことがわかる。

自分の目の前に在るモノ。それは風景であり、人であり、単なる物であり、もしかすると何かの現象なのかもしれない。

ただ、それをときに、自分であり、我が心と想いながら、眺めてもいいのだろう。

そして、それが写真になれば、自分にとって、なお良いのかもしれない。

 

そんなことを感じる、前のことたちだった。

 

 

 

 

 

美濃旅

先日、妻と岐阜の多治見と美濃へ行ってきた。

多治見ではモザイクタイルミュージアム、美濃ではエムエムブックスで行われているiaiさんの展示会を観に行くことを小さな目的に、ふらっと車で。行きの途中には妻の実家の山梨も寄ったり、そこまで決めないゆったりとした旅となった。

 

伺った先々はそれぞれ魅力的なものに溢れ、日々の生活を顧みたり、改めて自然や時間について畏れ敬うような時がいくつかあった。

特に旅の最後に訪れた洲原神社ではそんなことを強く想わせる場所だったように思う。

「在る」ことはとても偉大だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人を通して、みえない何かをみつめるような時間。ありがたい時間。

最近観た映画

先日、妻が自動車の免許合宿に行っていたこともあり、少しだけ、一人暮らしをしていた。

ゴールデンウィークも重なり、そのあいだはもっぱら映画を観ていた。

夜、吉祥寺のアップリンクで観た、イ・チャンドン監督の『バーニング』と『オアシス』、ポレポレ東中野で観た加納土監督『沈没家族』、アマゾンプライムで観たアレクサンドル・コット監督『草原の実験』、片渕須直監督『この世界の片隅に』(2回目)など、特に印象に残っているのはそれらだった。

 

イ・チャンドン監督は恥ずかしながら、知らなかった。でも観始めてすぐに好きだと思った。彼の映画の中に在る光が好きだ。

それは多分、光が闇であることを捉え、それを映し込んでいるからだろう。

『バーニング』ではそれは建物のガラスに反射して部屋に差し込んでくる光であったり、『オアシス』では夜になると部屋に差し込む街灯の影を持つ光だった。

それらはある象徴として日々の中に存在し、そして希望と絶望という相反する意味を併せ持っているように映される。だから、そこにいろんな感情をみることができた。それが美しかった。

 

加納土監督の『沈没家族』は、おそらく社会的な見地から観ても多くの意味をもつ作品だろうし、実際多くの社会学者などがこの映画をネタにいろいろ説いている。そのような面白さももちろんあったが、単純に、いいドキュメンタリー映画だと思った。

評論家でもない自分がえらそうに語ることではないが、個人的に思う良きドキュメンタリーだと判断する要素として、その映画の中に役者を超えるような個性の人がいること、良き音楽が背景に流れていること。そして、映像の中に無意識的に何かおもしろいものであり、その映画を決定づけるようなものが映り込んでしまっているということなどがある。

好きなドキュメンタリー映画、『エンディングノート』、『夢と狂気の王国』、『ふたりの桃源郷』、『人生フルーツ』にも、それぞれいるし、流れているし、映り込んでいる。だから良いドキュメンタリー映画だというのは当たり前なことなのだろうけれど、『沈没家族』にもそれがきちんとあったように思う。

この映画の中で、多用される 1990年代から2000年代前半の当時のフィルムの映像がまた、映画に良いにおいをつけているように思った。

これから先、現代の写真であり、映像は、より多く残っていくだろうけど、あのフィルムの鮮明過ぎず、どこか曖昧な映像によってできるあのようなにおいをつけることは難しいように思った。この映画の主題歌のMONO NO AWAREの"A・I・A・O・U”という曲もそのPVも良かった。

 

『草原の実験』と『この世界の片隅に』という二つの映画は、全く異なる映画ではあるが、二つとも強い美しさを持った作品であり、根底に伝えたいメッセージのようなものは同じであるように思った。

 

映画は自分にとって現実逃避であると同時に、現実をみさせてくれる。だから好きだ。

 

良き時代となりますように。

 

時間

2019年春のタナビケ写真館、無事終了しました。おいでいただいた皆さま、本当にありがとうございました。

 

タナビケ写真館としては今年で3年目。

毎年来てくださる方のお名前と顔が一致してきて、お子さんの成長も見えてくるようになり、それがなんとも嬉しい。

 

写真の力というのは大きい。それは一枚だけでも強さをもつものもあるだろうけれど、複数が合わさり、さらに大きな力を持つものもある。

一年前に撮った写真とその一年後に撮った写真、その間に在る時間も、そこに写り込んでくれるようで、そんなとき、写真はまた異なる意味を持ってあらわれる。

時と時の間が見えてくる写真であればいいなと思う。

 

一年前の写真。

 

 

 

 

 

 

タナビケ写真館の最終日の昨日は、3月11日。

 

数年前、現像していないフィルムがあったので、現像してみた。

それは、あの震災のあった一年後に、その地に赴いた時の写真だった。現像できずに置いたままだったのだ。

震災から一年経っているというのに、その風景は、あの日に起きたことをそのまま伝えているようだった。

あの時感じたどうしようもないほどの無惨さや恐怖を、その写真を見るまで、阿呆な自分はすっかり忘れていたようで、

その写真は一瞬であの日に引き戻し、その時の記憶を重く蘇らせた。

 

昨日もその写真を見て、3.11について、自分なりに思い出した。

 

 

 

 

写真にはいろんな力がある。

それはある光景を思い出させたり、ある日の一瞬を愛おしいものとして残してくれたり。

それに携わる以上、そんな写真の力を信じ、そこから何かを見出し、日々を生きられればと思う。

 

家探し

年が明けて、ひと月が経った。

一月は時間があれば、家を探していた。住んでいる家の更新を機に引越しを考えているからだ。

家を探していると、今住んでいる家の良さや悪さを改めて発見する。

でもなんだかんだこの家は少し狭いがいい家だなと思う。

たぶんそれは、ほぼ一日中良い光が入っていること。そして窓から大きな木(近所の人はその木をトトロの木と呼んでいる)が見えていること。あと、家の前にちょっとしたスペースがあること。その三つのことが大きい。

 

家を探していて、自分は何を気にしているのかと思うと、場所や広さなどはもちろんあるが、その他に、入ってくる光と窓からの風景、そして変化する余白についてだった。

変化する余白というのは、そこにはあるけどなくてもよいもの。断定できずに定まらないもの。つまり、遊びのような部分だ。

今の家で言えば、家の前のスペース。そこで向日葵を育てたり、椅子を出し、川を見ながら妻とサンドウィッチを食べたり、そこに積もった雪で雪だるまを作ったり、またそこから向こう側を見ると猫が窓から顔を出していることもあった。

トトロの木も、余白のようなものだろう。そこには春、夏、秋、冬と変化する風景がある。

自分の意識によって色々と感じられるその余白が、日々の生活を柔らかく彩る。

 

僕らのなかなか厳しい予算で条件に合った物件には、そんな余白をみつけられることは少ない。

出てくるのは同じようなつくりの家ばかり。

僕の優柔不断さも相まって、今もまだ探し中。妻は僕に呆れてもうこの家のままでいいんじゃないかとも言っている。

確かにそうかと思ったりもする。

 

どうなることやら家探し。

 

 

 

 

 

 

さっき友人に送ったメールの終わりに今の時間と日付がのっており、12月31日となっていて驚いた。

もうあの2018年が終わろうとしている。

年の始まりに妻と決めた週一回ブログを更新するといった約束も、1、2ヶ月を過ぎると、途切れ出し、最終的には8月以降放棄する有様は、我ながらに恥ずかしく、情けない。

さすがに、今年最後ぐらいはもう一度、ブログを書こう。

 

さて、何を書こうかと、あれこれ悩み、書いては消してを繰り返してるともう2時間経った。朝4時。

さすがにやめようかとしていたところ、昨日、妻と言い争いになったことを思い出す。

そんな時はいつも、できてもないのに自分の理想を、あたかもできているかのように話す。

昨日も「もっと人生楽しんだ方がいい」という誰もが言える当たり前なこと言ってみたのだが、

今日の朝、「もっと人生を楽しもうと思う」と言われた。

妻曰く人生は堪えるもので、今まで心から楽しもうと思ったことはほとんどないらしい。でも、もっと楽しもうと思うということだった。

 

「人生は暇つぶし」「生きてるだけで丸儲け」、こんなことを言っているのはやはり男で、それを良い言葉と思うのは自分で、

女性はまた異なる感覚で生きているから、世界は成り立っているのだろうな。

 

今年ももうすぐ終わる。そして次が始まる。その瞬間をきちんと想おう。

 

今年もお世話になりました。

どうぞ来年も宜しくお願いします。おやすみなさい。

 

 

 

帰省

この夏は実家のある山口に帰った。お盆の時期に帰るのは何年ぶりだろうか。

自営となり、渋滞や帰省の人で溢れ、交通費も上がる頃にわざわざ帰らなくても良いなと思っていることもあり、

そんな日をずらして帰るというのが常だった。

でもこうやってお盆の時期に帰ると、家の近所にある忌宮神社で行われる数方庭というお祭りをみることができる。

それは男たちが一人で長い竹をバランスを保ちながら持ち、女性は切籠(きりこ)と呼ばれる七夕飾りを持って、鬼石と呼ばれる境内の中心に置かれる石を周る。ことばだけでは一見少し地味にみえるが、そこに流れる緊張感などは、みていて静かに興奮する。

子どもの頃見ていたそれとはまた異なる感じ方や見え方をしていることが少し嬉しかった。

1800年続いているというこんなお祭りが、自分が育った街にあることはとても有り難く誇らしく感じた。

 

結局、山口に滞在したのは3日間という短い時間だったが、今はずっと一緒にいるのに、この街で過ごした時間を何も知らない妻と一緒にこの街やその周辺を歩くのもまた、とても良き時間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

7月

暑い日が続いているが、良き光に満ちている。

妻が家の前で育てるひまわりは咲き、コメダのシロノワールとしろくまの棒アイスは溶ける。

夏が来た。7月の記録。